禁猟区
「私がわからないのはだ、ミスター・ベネディクト」
カジノオーナーは云った。
「なぜいまだに犯人を作らないのか、ということだ」
テリー・ベネディクトは表情一つ変えずに答える。
「犯人なら捜している」
「そうじゃないミスター。犯人は捜すものじゃない。作るものだろう」
ラスベガスの帝王テリー・ベネディクトが、ホテルベラージオの難攻不落の金庫を破られてから、すでに三年が経過していた。
犯人はいまだ挙げられていない。
同じラスベガスでカジノを営んでいるものとして、男は不思議だった。
ことは金だけの問題じゃない。帝王の威信に関わっていることだ。
偽者でもなんでもいい、とにかく犯人を作って、見せしめをしなくてはメンツが潰れたままだ。なのに、なぜテリー・ベネディクトとあろうものがなにも動きを見せないのか?
帝王は、やはり表情ひとつ変えずに答えた。
「では問うが、君は私を三年前より舐めているかね?」
男はあわてて首をふった。
とんでもない話だ。いくら一度金庫破りにあったとはいえ、ベネディクトの悪辣さ、非情さはラスベガスでも群を抜いている。同じカジノオーナーとはいえ、自分などとは格が違う。舐めるだなどととんでもない。ラスベガスにおけるテリー・ベネディクトの存在感は、三年前の倍にも達しているだろう。
「そうだ。金庫が破られようと、だれにも私を舐めさせやしない。それに、偽者などたてれば、わかるものには偽者だとわかってしまう。それこそとんだ笑い話だ。私はね、ミスター」
そこではじめて、帝王の口の端かすこしだけ吊りあがった。
「本物の犯人を捕まえるつもりだよ。なにがあろうとも、何年経とうとも、確実にだ。そして、死を願うほどの苦しみを与えてみせる」
どこまでも冷徹でいながら、その瞳の底にほんのわずかな愉悦の色がある。
まるでハンターだ。地獄の果てまでも獲物を追いつめる、史上最悪の狩人だ。
すでに、どれほどの猟犬が獲物を追いかけていることか……あるいはいまこの瞬間にもかれらの喉笛に喰らいついているやもしれない。
そしてかれらは知るのだ。テリー・ベネディクトという、世界でもっとも濃厚な毒物の恐ろしさを……
男は、思わず身をふるわせる。
金庫破りの報酬が一億六千万ドル? バカらしい。帝王を敵に回す代価としては安すぎる。何者かはしらないが、やつらは高い買い物をしすぎたようだ。
「失礼、ミスター・ベネディクト。あなたはやはりラスベガスの帝王だ」
男の言葉に帝王は当然のように頷くと、腕時計にちらりと目を走らせてから、悠然と背を向けて去っていった。
帝王は忙しい。かれのスケジュールは分刻みで定められているのだ。
テリー・ベネディクトは急いでいた。
実際、かれには綿密なスケジュールがあるのだ。
(一分と三十秒の遅れか……間に合えばよいが)
足早に廊下をぬけ、ベネディクトはベラージオのオーナールームへと戻る。
室内では、すでに部下たちが準備を整えていた。
「はじまったかね?」
「いえ、やつの帰宅が少々遅れているようで……いま家に着きました」
「点けろ」
帝王の言葉に、目の前の50インチプラズマ液晶テレビのスイッチが入れられる。
そこに映ったのは、にやついた中年男の顔だ。
「テス。いま帰ったよ」
「遅いわよ、ダニー。料理が冷めちゃうところだったわ」
「ごめんごめん。でも、テスの料理は冷めたって最高さ」
ダニエル・オーシャン。
いまテレビに映っている男の名である。
老け顔すぎて逆に年齢不詳のこの男を、テリー・ベネディクトは監視している。三年前から、ずっと。
むろん、金庫破りの容疑者として。
「今日のディナーはなんだい、テス?」
そんなことには気づきもせず、オーシャンはやにさがったまま妻に尋ねる。
「あなたの好きなサーモンのムニエルよ」
「ポテトやほうれん草のソテーも忘れてない?」
「もちろんよ」
「それはいいな」
と答えたのは、しかしモニターの中のオーシャンではなく、ベネディクトであった。
オーシャン夫妻はカメラの外へと移動していき、カメラはダイニングキッチンのものへと切り替わる。テーブルのうえには、テスの言葉通りのメニューがおかれている。
そしてオーナールームのベネディクトのデスクの上にも、まさにいま、同じ料理が並べられていた。
同じサーモンのムニエル、というだけではない。
その大きさ、外見の仕上がり、付け合せの野菜、さらには皿の種類まで。
完璧に、モニターの中のものと同じである。
付け加えて云えば、使っているサーモンの仕入先も小麦粉の産地も同じのはずだ。
ベネディクトがそう手配したのだから。
テスがメニューを決めると同時に、監視係がベネディクトつきのシェフに連絡。
シェフはテスの用意したものに見た目の似た、しかし味は段違いに上の食材を三人分準備。そのうち一人分がキッチンへ、残りの二人分がバイク便へと渡される。
バイク便はテスが帰宅するまでの間にすみやかにオーシャン邸へ到着。
テスは帰宅をすると、まず食材を台所に置いて、洗面台で手を洗い、鏡を見て化粧を落とす。
この時間が、ほぼ正確に一分半。
その間に、バイク便から食材を託されたオーシャン邸要員がキッチンに侵入。物音も立てずに食材をすりかえ、出ていく。それとすれ違うようにキッチンへと戻ってきたテスは、なにも気づかずに調理にかかるという寸法だ。
日毎の食材のみではない。調味料のたぐいも、すべてベラージオで使用している一流のものへと入れ替えられている。ラベルを元の安物にはりかえているのがポイントだ。
こうして、オーシャン家の食材は、本人たちの知らぬところでベラージオと同じ一流品へと入れ替えられているのだ。
これもすべて、ベネディクトが美味い食事をとるためだ。
「おそれながら、ベネディクト様、一つよろしいでしょうか」
部下の一人が、思いつめた顔で云う。
ベネディクトは、瞳をテレビからそらしもせず、冷たい声で応じる。
「わたしは食事中だ。それを理解しているか?」
「申し訳ありません。しかし、どうしても一度お尋ねしてみたかったのです」
「勝手に話せ。ふむ……この味は日本のソイソースベースだな」
一瞥もせず、ベネディクトは食事をつづける。
「……なぜ、このような手間をかけてまで、オーシャン夫妻と同じ食事をおとりになるのですか?」
「理解だ」
やはり一瞥だにせず、ベネディクトは答える。
「理解、と申されますと?」
「わたしは、やつこそが金庫破りの犯人だと確信している。だが証拠がない。それをつかむためには、理解が必要なのだ」
「確信なされているのなら、いますぐにでも捕えられては……?」
「確証もなしに、感情だけで動けと? 確かに、やつの命などいつでもとれる。事実などいくらでも捏造できる。だからこそ、私は確証を得るまで自らに猟を禁じている。すべては確証を得てからだ」
「それが、なぜ日々の食事を同じにすることに?」
「人の行動の根幹はなんだ? 本能だよ。本能が行動をつくる。そして食事は本能に基づき、日々をつかさどる行動だ。食事を同じくすることは、他者を理解することに通じる。む、やつはなにをしているのだ?」
テレビの中では、オーシャンがソイソースの瓶に手を伸ばしていた。
「ちょっとダニー。まだソイソースをかけるの?」
「おれはこの丸大のソイソースが大好きなんだ、最高だよ」
「あー、もう! かけすぎよ。味が壊れちゃうじゃない!」
「これがいけてるのさ。試してみろよ」
「おい、ソイソースを」
ベネディクトの指示を待つまでもなく、丸大のソイソースが帝王に手渡される。
ベネディクトはまったく同量のソイソースをサーモンにかけ、それを口に運ぶ。
「たしかに、悪くないな。……が、オーシャンめ、歳を考えろ。塩分のとりすぎだ。おい、やつの家のソイソースを、明日までに減塩タイプにとりかえろ。ああ、それと、塩も自然塩に変えてこい」
「かしこまりました。それでは、入れ替えたやつの家の塩は廃棄、ということでよろしいですか?」
「わたしが諸君たちののなにがわからぬかというと、その無駄を好む姿勢がわからんのだ」
ベネディクトは呆れたように云う。
「塩の一掴みたりといえど無駄にはするな。使い道があるはずだろう。そうだな……オーシャンにたまに電話をかけてくる、あの気持ち悪い若造の……」
「ラスティですか?」
「そうだ。やつの経営するホテルのシュガーポットの中身と入れ替えろ。いや、一つ二つだと不自然だな。よし、やつのホテルのシュガーポットの中身すべてを塩と入れ替えろ。すぐにだ」
「かしこまりました」
部下の一人が、すぐに部屋を出て行く。ミッションをこなすため、いつでも動き出せる部下が何人もひかえているのだ。
どういうわけか、ベネディクトはあのラスティとかいう若造が気に食わなかった。やたらとオーシャンと連絡をとっては、二人で楽しげに知性の感じない話ばかりをしているのが帝王の苛立ちを刺激する。
さらには安っぽいホテルを経営しているというのも気に食わない。ベラージオのオーナへであるベネディクトにとって、一流以外のホテルは存在価値などないのだ。
といっても、ホテルオーナーとして勤勉ではある帝王だ。一度だけ、身分を隠し、ラス帝のホテルを訪れたこともある。といっても、さすがに三流ホテルに泊まる気にはならず、プールだけを利用した。
プールは呆れるほどに表面だけ派手な、ラスティ同様の安っぽいものだった。
その証拠に、ベネディクトが水着で現れたときにはそれなりに入っていた客が、一泳ぎして帰るころにはもうだれもいなくなっていたほどだ。わかるものにはわかるのだ。
おまけにあとで耳にしたところ、奇しくもその日にはプールに小型の熊が出没したらしい。カナダの山奥ではあるまいし、熊が出没するなど、いったいどれだけ安っぽいホテルなのだと、ベネディクトは絶句したものだった。
このベネディクトの一連の行動によって、ラスティのホテルは見事な赤字をたたき出しつづけることになるのだが、それはまた別の、そして帝王にとっては興味のまったくないどうでもいい話である。
さておき、さきほどの部下が、質問を続ける。
「行動を理解するため、というのはわかりました。しかし、なにもやつの健康まで気にすることは……」
「やつが死んでしまったら、わたしはだれから借金を取り立てればよいのだね?」
モニターの中のオーシャン夫妻が食事を終えるのとまったく同じタイミングで、ベネディクトはフォークをおく。
そしてダニーが冷蔵庫から赤ワインを取り出し、グラスふたつに注いでまたキッチンに戻ってくるのと同じタイミングで、ベネディクトの手元にも、同じ銘柄の赤ワインが運ばれてくる。
ワインを口に含むと、ダニーは満足そうに微笑んだ。
「このワインは相変わらずうまいな。本当に角のスーパーで買ったものかい?」
「特売品よ。とんだ掘り出し物よね。まるで高級レストランのワインみたい」
あたりまえだ。ラベルは一本10ドルもしない安物だが、中身はオーストラリア産のグランジだ。
本来ならもっと良いワインとすり替えたかったのだが、さすがにラウンジ以上のものでは無理があるだろうと諦めたのだ。
監視してみるとわかったのだが、オーシャンの暮らしは、存外に質素なものだった。
というよりも、テスがしっかりしすぎているのだ。
中身を自分の満足するものに入れ替えなくてはいけないベネディクトとしては困ったものだった。部下にとっては災難ですらあった。
それほどまでに、オーシャン家は普通の家庭だった。
とても、一億六千万ドルを手に入れた人間だとは思えない。
だからこそ、ベネディクトは確証がつかめず、動くに動けないのだ。
ここ三年間の監視で、ダニエル・オーシャンがしたそれらしい贅沢といえば、一つくらいしかない。
と、おりよくその件について、報告が入った。
「ベネディクト様、例の腕時計が完成したそうです」
「もってこい」
ことは二年半前にさかのぼる。
ダニーがある日突然、ロレックスの腕時計を買ってきたのだ。
これにはテスが血相を変えた。
「なんであなたって人はいつも相談もなしにそういうことをするの、ダニー」
ベネディクトも血相を変えた。
「ロレックスだと? なんという悪趣味だ」
ロレックスといえば、ほとんど成金趣味のあらわれだ。ベネディクトは一代でいまの地位をなした男だが、自身の趣味には絶大な自信を持っている。
そのベネディクトにとって、あんな嬉しそうにロレックスを買ってくる男など、存在を信じることすらできない。
帝王は即座に決断した。
「日本に飛び、。カシオのもっとも優れた職人を引き抜いて、ロレックスに潜入させろ」 時計はやはり質実剛健な日本製に限る。ベネディクトは日本びいきだった。
引き抜かれたカシオの社員は、身分をいつわってロレックスに入社。
二年がかりでその技術のすべてを学び(優秀な男なのだ)、材料と装置さえあれば、一人でロレックスとまったく同じ時計をつくれる人間となった。
あとはその男をカシオに再入社させ、さらにアメリカに出向させ、ベネディクトの用意した「偽ロレックス製造専門工場」で、ロレックスと寸分たがわぬカシオ製の(カシオの社員がつくったのだから間違いなくカシオ製だ)腕時計をつくらせるだけだ。
その完成品が届いたという報告なのだ。
帝王は完成品を手に、驚嘆の声をあげる。
「素晴らしい。やはり日本の職人は優秀だ。この品の悪い成金趣味、どこからどう見てもやつの持っているロレックス製のものと寸分たがわん。今夜中に、これとやつの腕時計をすりかえてくるのだ」
「かしこまりました」
部下が腕時計をふところに、新たなミッションに駆け出す。
と、今度は別の部下が報告にあらわれたるまったく帝王は忙しい。
その部下は、少々困惑気味の表情を浮かべていた。
「その……ベネディクト様? 大変申し上げにくいのですが……」
「かまわん、云え」
「あの……ここ三年間でのやつの監視費用が一億六千万ドルを越えました。あの……どういたしますか?」
帝王は冷たい視線を送るばかりだ。
「どうもこうもない。そのまま監視を続けろ」
「しかし……これ以上はやつから金取り戻しても赤字ということに……」
「利子を取ればいいだけの話だ。貴様らはだまってわたしの指示に従えばいい」
「か、かしこまりました」
つまらぬ話を打ち切るように、帝王は葉巻に火をつける。モニターの中でオーシャンが吸っている一見すると安物の紙巻タバコも、もちろんベネディクトと同じ葉巻をわざわざ刻んで紙巻にした特注品だ。
(しかし、解せんな)
帝王はさすがに疑問ではあった。
(これほどまでにやつと同じ行動をとっているのに、いまだやつがどこに一億六千万ドルを隠しているのかわからんとはな。やつがもっていそうなのは、せいぜい一千数百万ドル……一億六千万ドルにはまったく足りん。やれやれ、当分はやつの監視をやめるわけにはいかんな)
モニターの中で自分の元恋人といちゃついているダニエル・オーシャンのにやけ面をにらみつけながら、帝王は決意をあらたにするのであった。
ちなみに、怪盗ナイトフォックスの密告により、ダニエル・オーシャンには十人もの共犯者がいたということにわかったのは、この件のしばらくあとのことである。
(共犯者……そうか、そういうもの可能性もあったか。まったく考えてもいなかった)
ものすごく驚きながらも
「全員の居場所がわかるのか」
そう返すベネディクトには、間違いなく王者の風格があった。
……はずである。