謎の窃盗団による金庫破りより、数ヶ月の月日が流れていた。
テリー・ベネディクトの日常には、なにも変化はない。
被害総額、一億六千万ドル超。
常人ならば、百回首を吊っても追いつかない金額だ。常人ならばの話だ。
テリー・ベネディクトはちがう。
確かに、痛手ではあった。
だがラスベガス最大のカジノを三つも有する賭博王の身代を潰すほどではない。
潰されたのはメンツだ。
犯人グループは、いまだに見つからない。
あれほど鮮やかに厳重な警備をかいくぐった奴らだ。裏社会で無名ということは有り得ない。
だが、有力な候補にはすべてアリバイがあった。
最有力候補にいたっては、その時刻にはほかならぬベネディクト自身が捕えていたのだ。
犯人は、まるで見つからない。
だが、テリー・ベネディクトの日常は変わらない。
メンツを潰した奴は許さない。必ずや犯人を見つけ、共犯者も、家族も、みな死んだ方がマシなほどの痛い目に合わせてやる。それが、テリー・ベネディクトの日常なのだ。
だから、かれの日常はなにも変わらない。
今日もまた、精密機械の異名のままに、同じ時刻に起き、同じ車に乗り、同じタイミングでカジノへ顔を出す。同じように部下を監視し、同じように客の様子を見、同じように上客へ挨拶に回る。
数ヶ月と変わった事があるとしたら、ただひとつ。
「センセイ、オネガイシマス」
勉強中の日本語が上手くなったことくらいだ。
客の中には、感心し、訊ねるものもいる。
「いまの言葉はなんです?」
かれは微笑してこたえる。
「これはジャパニーズで敬意を表す言葉です。高い技術を持つものに対して、頭を下げて頼むときに。この言葉を使ったそうです。貴方に対する、私の心からの言葉です」
かれに敵意をもつことは、難しいだろう。
かれは完璧を好む。すべてを如才なくこなす。そのために努力は惜しまない。
だからこそ、三つのカジノを、休むことなく毎日まわる。自分の目で、耳で、すべてを確かめる。精密機械の名のままに、完璧な仕事をこなす。
仕事を終えると、ディナーをとる。
以前は毎日のように一流レストランに予約を入れていたが、いまは必要ない。一緒に食事をとる女は、彼のもとを去った。数ヶ月前との、わずかな違いの一つだ。
もっとも、あまり気にするかれではない。その気になれば、女などいくらでも手にすることが出来る地位があり、金がある。女など、いまさら惜しまない。
ただ、かれは少々、審美眼にうるさい。潔癖なほどの完璧主義者なのだ。なかなか、かれの眼鏡にかなう女はいない。
その点は、多少惜しい気がしないでもないが……
不思議と、彼女が去っていったことには、怒りも落胆もない。
彼女のことを考えるとき、思考は自然と彼女自身ではなく、べつの存在へと流れていくからだ。
(ダニー・オーシャン……)
彼女の元夫だった男。服役中のケチな泥棒。
そして金庫破りの、最有力容疑者。
ここ数ヶ月、気が付くと、ベネディクトはやつのことばかりを考えている。
ラスベガスでは、その誕生から現在まで一度足りとも強盗も泥棒も許したことはなかった。
その歴史に泥を塗ったのが、よりにもよってカジノ王テリー・ベネディクトであるなどと、どうして認められようか。
ダニー・オーシャン。
金庫破りの名人だと、ここ数ヶ月の情報収集でわかった。
だが、そんな話を聞く前から、事件が起こった直後から、かれは確信していた。
犯人は、この男にちがうあるまいと。
あるいはそれは、事件の起きる前から、あのレストランでダニー・オーシャンとはじめて出会った瞬間から、確信していたことであったのかもしれない。
この男は、自分のとって、見逃してはならないなにかなのだと。
いい歳をして子供のような笑みを浮かべる男に、テリー・ベネディクトはそう直感していたのではあるまいか?
(くだらんな)
日毎おとずれるその想いを、言下に切り捨て、日常へもどる。
かれの日常に狂いはない。精密機械は壊れないのだ。
帰宅すると、まず語学の勉強をする。幅広い語学は、幅広い人脈を生む。
(日本語はほぼマスターした。次はどの国の人間を狙うか……)
予定の時間どおりに勉学を切り上げ、かれは鏡の前に立つ。
鏡の中で、カジノ王が微笑を浮かべている。
本音を云えば、笑うのなどまっぴらだ。
だが、自身の深い知性が、厳しいまなざしが、多分に威圧となり不要な敵をつくることをかれは知っている。
だからこうして、笑顔の練習をする。心を殺して、微笑を浮かべる。鏡の中に、自身の理想の笑顔を思い描き、それを実現させる。いついかなる時も、完璧な笑みを浮かべるために。
テリー・ベネディクトと対等の存在など、このラスベガスに、いや合衆国に果たして何人いることか。
それを思うと、笑うことなどばかばかしくなる。
それでも笑う。十数年、続けてきたように、己を律して。
もはやそこには理由などない。精密機械であるかれが、かくあるべきと定めたのだ。それで十分だろう。
だが、何故だろうか、近頃は、鏡に向かったとき、そこに思い描くのが、自身のいつもの微笑ではなくなっていた。
(ダニー・オーシャン……)
いつかのレストランで見た、あの男の笑顔になっていた。
それは、かれの笑顔とはまるでちがっていた。
油断がありすぎ、相手に舐められすぎる笑いだ。
敵意をもたれてはいけない。だが舐められてもいけない。
その鉄則からすれば、ありえないような笑顔だ。
なのになぜ、近頃はあの笑顔が思い出されてならないのか?
(長らく、見ていなかったものだからかもしれんな)
暗黒界に君臨するかれに、そのように無邪気に笑いかけるものなど、絶えて久しかった。
だからこそ、かもしれない。かれがあの男を敵だと直感したのは。
くだらぬ笑顔をふりはらい、テリー・ベネディクトは眠りにつく。翌日も、精密機械の日常を送るために。
カジノには、今日も異常はない。
その報告を受け取るかれもまた、いつも通りに完璧なスケジュールを完璧にこなすだけだ。
だが、その日は一つ、部下の報告の中に、ほんのささいな変化が見られた。
「ダニー・オーシャンが出所しました」
「ほう」
冷めた目で、部下の報告を受ける。
「尻尾はつかんだのか?」
「いえ、現在、二名に追跡をさせていますが、いまのところ、怪しいところを特にないそうです。こちらが、先ほど送られてきた、出所後のやつらの写真です」
写真には、一代の車が映っていた。
運転席には、サングラスをつけた若い白人の男。
後部座席には、かつてかれの恋人であった女。
そして、その隣には、あの男がいた。あの日のように、無邪気な笑みを浮かべて。
やつだけではない。隣の女も、運転席の男も、まるでやつにつられたかのように、無邪気な笑みを浮かべている。女がそのように笑う姿を、かれははじめて見た。
その笑顔で、かれは確信をあらたにする。
「引き続き、やつの監視を続けろ」
それだけを告げて、足早にかれは去った。
テリー・ベネディクトの日常は忙しく、精密機械の日常に狂いはない。
敵は消す。徹底的に消す。
(ダニー・オーシャン。逃しはせんぞ)
それが、テリー・ベネディクトの日常なのだから。
テリー・ベネディクトが去ったのを確認してから、二人の部下は息を吐いた。
「まるで獲物を前にした狩人だ。恐ろしい」
「ああ、恐ろしい。ボスが、本当に笑うことが、あるなんてな……」
おわり
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