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 その道でラスティ・ライアンを知らないものはもぐりである。
 その道とは、すなわち裏道だ。
 まだ若いといってもいい年齢でありながら、かれの名声はとどまるところを知らない。
 曰く、世界でもっともスマートな詐欺師。
 曰く、かれに騙されることは幸福の証。
 曰く、計画の成功率150%(100%成功し、想定以上の成果をあげる率が50%の意)
 曰く、裏社会のハリウッドスター。
 つねに斬新なアイデアと綿密な計画性をそなえ、甘いマスクと細やかな気配りゆえに男女問わずに人望は厚く、その知識は古今に通じ、その活動は合衆国50の州を越え、欧州にまで及ぶ。
 もし泥棒の神様などというものがいるとしたら、ラスティ・ライアンこそはそれに愛された唯一無二の存在と云っていいだろう。
 ラスティが最後に行った大仕事……ベラージオの一億六千万ドル強奪は、裏社会ではすでに伝説といってもいい。
 主犯は金庫破りの天才ダニエル・オーシャンということになっているが、この件にラスティが噛んでいることを知ったものは、口をそろえてこう云ったものだ。
「あれはラスティのヤマだよ」
 ダニーと云えば、仕事の大胆さのわりにわきが甘いことで有名だ。だからつまらぬことで足元をすくわれて、刑務所に入れられたりもする。
 ラスティには、その甘さはない。かれが甘いのはマスクだけだ。
 ベラージオでの大胆なアイデアは確かにオーシャンらしいものだったが、それを実現可能にした秒単位での緻密な計算には、明らかにラスティ・ライアンの刻印が押されていた。 ゆえに、あの件の詳細をすこしでも知っているものはこう云うのだ。
「あれはラスティのヤマだよ。この世界に、ラスティ以外にあれができるものはいない」
 カリスマ、という言葉でもまだなまぬるい。
 孤独を好み猜疑を常とする裏社会の人間が無償で信頼する、およそ唯一の人物。
 詐欺神の寵児。 
 あるいは神すら欺く稀代にして無二のトリックスター。
 裏社会のジーザス・クライスト。
  それが、ラスティ・ライアンなのだ。

 さて、その神の寵児。
 爆笑していた。
「……砂糖より甘い物を知ってるかい? 答えはおれの考えさ。HAHAHAHAHA!」
 自室で、一人だった。
「塩よりしょっぱい物を知ってるかい? 答えおれの人生さ。HAHAHAHAHA!」
 一人で話して、一人で爆笑していた。
「あー、おもしれ。あ~~~~~~おもしれええええええ!」
 洗面台の鏡に向かって爆笑をつづけるラスティは、ひざを打ちながら歯ブラシを手に取ると、それを投げつけた。
「死ねよ! 死ね!」
 むろん、歯ブラシ程度でだれが死ぬはずもないし、鏡すら割れることもない。
 鏡にぶつかった歯ブラシは、はねかえって豪奢な絨毯のうえに音もなくおちた。歯ブラシのもとに移動して、またラスティは笑う。
「転がらない! 転がらないよ! おれのホテルの絨毯スゲー!」
 ひざを叩いて笑った。
 そしてひざから崩れ落ちて、歯ブラシにひれ伏すように絨毯にしずみこんだ。
「でもだれも泊まりません! オーナーが屑だから泊まりません!」
 ラスティの格好はひどいものだった。
 こだわりの英国ブランドでオーダーメイドしたYシャツは一体なにをしでかしたのかと思うほどしわくちゃだし、仕立ての良いスーツの上着は壁にたたきつけられ、スラックスはずり落ちて半ケツだった。
「HAHAHAHAHAHA! もう死ねよ、おれ」 
 歯ブラシをひきつかみ、己の頭にたたきつける。
 頭部は坊主頭であり、歯ブラシと短い髪がぶつかりあって、ちくちくちくちくと反発しあう。
「負けるなおれの髪、いや、おれの髪ごときに負けるな歯ブラシ! いや歯ブラシ様!」
  そのまま、自分の頭を歯ブラシでちくちくちくちくとたたきつづける。
 いつまでもいつまでも叩きつづけるのであった。

 さて。
 あまり知られていない話ではあるが。
 というか、誰もしらない話ではあるが。
 ラスティは鬱病だった。
 それも慢性の躁鬱病だった。  
 なにかすこしでも嫌なことや失敗があると、際限なく落ちこみ、躁鬱を繰り返すのだ。
 今回は、彼の経営するホテルですべてのシュガーポットの中身が塩と入れ替わるというありえないミスが発生し、そのせいでホテル中を謝ってまわる羽目になったのが原因だ。 
 かれはこの失態に猛省し、頭を丸坊主にしたくらいだ。
 むしろ永久脱毛するべきだとすら思った。
 その上で、禿げ上がった頭部に「人に迷惑をかけることしかできないファッキンビッチです」とタトゥーを入れようとした。
 が、できなかった。
 なぜか?
 ある性質のためだ。
 どんな性質かは、見てもらえばわかる。

 ラスティのいるオーナールームの扉がノックされた。
「オーナー、よろしいでしょうか」
 部下の声を聞いた瞬間、ラスティは立ち上がっていた。
 その鋭いキレのある動きがソリッドな空気の流れを周囲に生む。
 瞬時にして下がった体温と、頭から下がった血液が、五体を包む大きなうねりとなり、それが周囲の空流と相まって、衣服をうねらせる大きな波を一つ立てる。
 そして波の去ったあとには、なんという自然の怪奇であろうか、まるでいましがたクリーニングから帰ってきたばかりのように、しわ一つないスタイリッシュなYシャツと、クールとしか表現のしようがない直線を描くスラックスがあらわれていた。
 うつむいていた顔があげられる。
 そこにあるのは、自棄の表情でも滂沱たる涙でもなく、モニター越しに見たとしても特上のオーデコロンが匂いたつような、余裕を感じさせる笑顔だった。
 ダウン系ドラック中毒者そのものの姿はどこにも見つけることは出来ない。
「入れ」
 その声もまた、威厳と優しさとクールさを同時に感じさせる声であり、決して涙声ではなく……
 要するに、そこにいるのはどこからどう見てもみなの知ってる、あの天才ラスティ・ライアンであった。

 被視覚型理想自我強制症。
 と、やぶ医者に判断されたことがあるが、無免許だったので本当にそんなものがあるのかどうか、ラスティにはわからない。
 が、ともかくかれの病名はそれだ。
 人の視覚を意識した瞬間、自己を理想化した姿が脳内にたち現れ、それに背くことが一切出来なくなるという、そういう病気だ。
 もし自己理想像にさからうような行動をとってしまった場合、呼吸困難に陥り、さらに心肺機能の極度な低下と、体温の急低下、さらに全身に蕁麻疹が出て、激しい耳鳴りにおそわれ、抜け毛が促進し、視界が失われることになる。
高水圧の場所から急浮上すれば、ラスティの苦しみが少しは理解できるだろう。
 要するに、だ。
 ラスティは、カッコつけていないと物理的に死んでしまう病気に罹っているのだ。
 この病気のために、かれは精神の均衡を欠き、一人の時には激しい躁鬱病に悩まされるようになってしまったのだ。
 だが、そんな躁鬱の醜態を見せることは、かれの宿痾が許してくれない。
 人は命の危険に脅かされたとき、進化を遂げる。
 ラスティ・ライアンもまた、命の危険に晒されつづけることによって、進化を遂げた。遂げつづけた。
 おかげで、いまでは他人があらわれると0.1秒の間に理想の自己を呼び起こすという、宇宙刑事のような技能を身につけていたのであった。

 かくして、蒸着を完了したラスティは、 室内に部下を招き入れる。
 部下の顔には、疲れの色濃くにじんでいた。連日のトラブルで、すべての従業員がまいっているのだ。
「失礼いたします。先日行った周辺地域の熊狩りですが、やはりどこにも熊などいなかったそうです」
「ま、だろうな。そもそもその熊は泳いでいたんだって?」
「はい、目撃者の方は、みなそうおっしゃっています」
「飲料水にドラッグが混ざっていた可能性を考えた方がまだマシだったってわけだ」
 かるく肩をすくませて、タバコを一本抜き出し火をつけると、残りを部下に放り投げる。
「スタッフ全員に一本ずつそいつを吸わせろ」
「はい?」
「それでバッドトリップしなかった手慣れてるやつが、飲料水にドラッグを入れた犯人だ」
 あっけにとられる部下の前で、うまそうに煙を吐き出すと、ラスティは微笑を浮かべる。
「おっと、もちろん、おれ以外でね」
 それで、ようやくジョークだと気づいた部下は、固くなっていた表情をゆるめた。
 ラスティは部下の手元からタバコを一本取り出すと、有無を云わさず口にくわえさせ、火を点けた。
「起きちまったもんはしょうがないし、原因不明な以上、考えるだけ無駄だ。あとはおれが考える。お前たちは一服して、あとはいつも通りのサービスと、その向上につとめろ。いいか、辛気臭い顔はするなよ。ここはおれのホテルなんだ」
 その言葉はまるで魔法のように部下の心を和らげる。
 この人についていけば大丈夫だと、そう信じさせる魔力を持っている。
「わかりました。任せてください。すべてのお客様に最高のサービスを提供いたします!」
 やってきたときの焦燥もつかれも吹き飛ばし、部下は希望に満ちた瞳でオーナールームを出て行った。

 見届けたラスティの唇から、ポロリとタバコがこぼれおち、まだ火の点いたままのそれが、絨毯のうえに着地する。
 が、火事の心配はない。
 直後に、ラスティの顔面がタバコのうえに降ってきたからだ。
「最高のサービスだってさHAHAHAHAHAHAHA! 来もしない客にどうやってサービスすんだよHAHAHAHAHAHAHAHA!」
 高い鼻を使って、器用にぐりぐりとタバコをもみ消して、そのまま鼻を支店にブリッジをはじめる。
「あう……おうおう……もげる! もげるよ鼻! 最高さHAHAHAHAH……」
 ガチャリとドアが開く音がする。
「オーナー、申し忘れていしたが……」
「どうした?」
 戻ってきた部下の見たラスティの姿は、デスクに腰かけ、書類に目を通すものであった。
 ドアの開く音がして、完全に開くまでのわずか一秒足らずの間に、ラスティはブリッジの姿勢のまま跳ねあがり、その衝撃でどこからか飛ばされてきた書類を空中でキャッチすると、空中で足を組んでそのまま椅子のうえに落下したのだ。
 超人の技と云わざるを得ない。
「今朝、例の団体客から連絡がありまして……おや、地震ありました?」
 部下は衝撃でゆれているキャビネットの扉を見て、不思議そうな顔をする。
「おかしいですね、私はまるで揺れを感じませんでした」
「うん? 窓がすこし開いていたかな? 今日は風が強いからな」
 なにごともなかったように、背後の窓にすこし触れる。もちろん閉まっているが。
「ああ、やはりちょっと開いてるな。で、団体客がどうしたって?」
「それが、予約をキャンセルしたいとのことでして……まだ確定してはいないのですが」
「やれやれ。またか。次に連絡があったらおれに回せ。大丈夫、なんとかなるさ」
 困ったふうに肩をすくませながらも、ラスティの白い歯がキラリと光れば、それだけで大丈夫な気分を与えるものだ。まったくもって、ラスティは理想の上司になりきっていた。
 が、これでもまだ、ラスティの全力には程遠い。
 せいぜいが50%といったところだ。
 ラスティは、見られているとカッコつけざるを得ない。が、それにしたって、見られ甲斐というものはある。ホテルの従業員のように素直なやつらが相手では、かれの50%を引き出すのが精一杯だ。
 裏社会の人間のように、抜け目のないやつらが相手なら、当然ラスティにも力が入る。むしろそのために犯罪に手を染めたといっても過言ではない。
 それでも、ラスティ・ライアンは好みにうるさい男だ。いままでいろんな奴と組んできたが、かれの力を70%も引き出せればいいところだ。例のベラージオの時に組んだコールドウェルのJrなどは、ラスティの一挙手一投足に注目していたからけっこういい方で、80%は引き出したろうか。
 欧州にいたときに付き合っていた女刑事などは最良の部類だ。仕事を隠しているというスリルが、90%ほどはラスティの能力を引き出してただろう。
 それでもだ。スリリングな恋人の存在をもってしても、天才のポテンシャルを100%引き出すにはいたらない。
そこまでかれを刺激する存在など果たしてこの世にあるものなのか?

「報告はそれだけか? なら下がっていいぞ。その客から連絡があったら、すぐにおれにつなぐんだぞ。いいな」
 部下が去り、扉が閉じられると同時にラスティはデスクのうえにとびのった。
「また客に逃げられましたーHAHAHAHAHAHA! おれにはもうなんにもありませーん、裸でーす、ラでーす!」
 勢いよくYシャツを左右にひきちぎり、上半身をあらわにすると、そこには油性マジックで「マザーファックしようとして母親にふられました」と書いてあった。もちろんラスティ自身の筆によるものだ
 本当はマジックではなくタトゥーにしたいところだったが、いざ職人を呼ぶとかれのスイッチが入り、
「いまブロンクスでもっともイカシたタトゥーがなにかわかるか? ジャパニーズのカンジさ。ところがこいつには気をつけなくちゃいけないことがあって、たとえばマネーとボールを組み合わせちまうと……」
 などと、タトゥーを彫ってもらうどころか、逆に講義をはじめてしまう始末だった。そして相手も相手でその話に聞き入って、なぜか納得して帰ってしまうのだから始末が悪い。
 だから、こうして仕方なく直筆のマジックで済ましているのだ。
 髪を切るときも
「永久脱毛してくれ。全部だ、全部。まつげも眉毛もひげも鼻毛も全部だ。そしてつるつるになった全身にタイガーバームを塗りたくって日焼けマシンの中に三時間ほど放置してくれ」
 と頼もうとしたはずなのに、気がつくと
「夏だし、ちょっと思い切ってくれよ。なに、いい男は坊主にしたっていい男だってことを、証明してやるさ」
 などとぬかしている始末で、ラスティは自分が憎くてたまらなかった。

 そんな憎い自分を痛めつけるため、ラスティはデスクのうえに這いつくばると、猛烈な勢いで腕立て伏せをはじめる。
 しかも合間に合間に両手を離して手を叩くという、ハードなやつだ。
「ハイ!」
 パン!
「ハイ!」
 パン!
「ハイハイ!」
 パンパン!
 繰り返しているうちに、どんどんリズミカルになっていく。
 というか歌いはじめていた。
「♪ライク ア ヴァ~ジ~ン~」
 なぜかマドンナだった。
 しかもフルで歌いきった。
 さらに歌い終わったら『マテリアルガール』に続いた。
 コーラスまで一人で表現するノリノリぶりだ。まさにとどまるところを知らない
 アルバムを一枚歌いきるつもりか? そう思わせるだけの勢いはあった。
 が。
 コンコン。
「失礼します」
 ノックの音と同時に、ラスティは両腕の力だけで前方宙返り二回転を成し遂げた。
 さらに、跳ね上がる直前に地面に散らばっていたボタンを回収し、回転中にさっとシャツを一撫ですると、緊張感にそそり立った胸毛がボタンホールに絡みつき、遠心力を利用して見事ボタンを繋ぎとめることに成功した。
 よって、部下が扉を開いたときに見たのは、ジャズにしか興味ありませんとでも云いたげな涼しい顔をして窓の外を眺めるオーナーの姿であった。
「どうした?今日はせわしないな」
「お電話です。こちらにつなぎますか?」
「ああ、さっき云っていた団体客か」
「いえ、それがちがいまして……」
「なに? じゃあ、何者だ?」
「ダニエル・オーシャン、と云えばオーナーはわかるとのことですが……」

 その瞬間、天才のボルテージは一気に100%をふりきった。

「オーシャンが? 珍しいこともあるもんだな、やつから電話なんて。いいぞ、つなげ」
 何事もなかったかのように、ラスティは答える。
 だが、なにもしていないのに、なぜかかれのYシャツはキラキラと輝きはじめる。
 その秘密は、脳内麻薬とフェロモンにある。
 脳内麻薬の分泌により、過剰に全身をかけめぐったフェロモンが、五体の汗腺より一斉に噴射。
 急上昇した体温は、またたくまにフェロモンを含んだ汗を気化させ、かれの衣服と周辺大気をキラキラと輝く素敵空間に変えていくのだ。
 これが俗に云うラスティの第二段階、シャイニング・ラスティモードである。
 ボルテージが100%を越えたときのみにあらわれる、幻の形態だ。
 そんなオーナーの姿にうっとりしながら、部下は内線をつなぐために去っていく。

 ほどなくして、オーナールームの内線が鳴った。
 ときに、稲妻の速度をご存知だろうか?
 およそマッハ440。
 秒速になおすと150kmである。
 人間の反応速度を優に越えている。
 もし、いまオーナールームを見ているものがいたとしたら、そいつはここに稲妻を見ただろう。

「ダ」まず首が270度曲がり受話器を確認。ボルデージ150%
「二」シャツの襟がシャキーンと立ち上がり男前指数上昇。ボルテージ200%
「|」首ふりによってまきおこった風が落ちていた上着を宙に浮かし、ボルテージ300%。
「で」足の指先が絨毯をもみ、絨毯のふんわり指数が上がってボルテージ400%。
「ん」見開いた眼力が窓ガラスの汚れをふきとばし、ボルテージ500%。
「わ」どこからともなくリッキー・マーティンの音楽が流れ出してボルテージ600%
「キ」宙に浮かび上がったラスティのからだが太陽を浴びてボルテージ700%
「タ」空中で上着を身にまとい、完全装備でボルテージ800%
「|」着地と同時にくるくると回転しながら受話器を受け取りボルテージ900% 
「!」停止と同時に「ラスティだ」と最高にクールな対応、限界のボルテージ1000%!

 まさに稲妻。
 常人はその眼にうつすことすらできぬ天上の絶技。
 1000%ラスティのみが可能とする奥義、ライトニング・キャッチホンである。

 つかの間、ラスティは悦楽の物思いにふける。
 ああ、これほどの男は他にいない。
 いや、女でもなんでも、これほどまでに自分を昂ぶらせ、つまらぬ限界の枠をはるか彼方にぶっちぎらせてくれる最高の相棒は、この惑星のどこをさがしても、いや銀河系のどこを捜しても、ダニエル・オーシャンただ一人をおいて他にいないだろう。
 ダニーといるときは、最低な自分を忘れられる。
 ダニーといるだけで、最高の自分でいられる。
 これほどの幸福が、ほかにこの世に存在するだろうか?
 オーシャンが刑務所にぶち込まれているときは最悪だった。
 表の世界では、ラスティとオーシャンは歳も違えば仕事も違う。まさかのこのこと面会にいくわけにもいかない。そもそも、詐欺師や泥棒が好んで刑務所に行くなんて、ばかばかしいじゃないか。
 オーシャンから隔離され──実際はオーシャンが社会から隔離されていたのだが、ラスティからしてみれば自分がオーシャンから隔離されたのと同じことだ──日々、最低になっていく自分が惨めになり、惨めな自分に慣れていくことが恐ろしくなり、何度もオーシャンに会いにいこうと思った。
 自らの矜持をぎりぎりで守ってくれる若手ハリウッドスターを、ポーカーを教えるという理由で身近に置き正気を保ってはいたが、無論、オーシャンを前にしたときの、自分がどこまでものぼりつめていると信じられる、天国への階段をのぼりつづけているようなあの感覚の比ではない。
 もはや理由も何もない。
 砂漠の旅人が水を求めるように、ただダニー・オーシャンに会いたかった。会って、くだらない悪さの話をして、ずるい顔で笑いあいたかった。
 最後までかれを引き止めたのは、なにも世間体や打算ではなく、ただ「オーシャンの知ってるラスティ・ライアンは刑務所に縁のあるような間抜け男ではない」という、それだけの理由だった。
 服役中のオーシャンに花を贈ったのを、かれの最低限の抵抗であり、救いをもとめる渇望の腕であった。
 その花を受け取ったから、最初に会いに来た。ダニーはそう云った。
 あの瞬間の喜びをだれが理解できようか。
 その喜びを押し隠し、やすい誘いをことわる苦しみを、だれが理解できようか。
 ダニーのくどき文句を待っていた、あのエレベーターでのときめきは、だれにも理解できるものか。
 この世の中で、ラスティ・ライアンほどダニエル・オーシャンを必要としている人間はいない。
 そう、断言できる。

 それでも、だ。
 それでも、前回の仕事を終え、オーシャンが恋人のために足を洗うと宣言したとき
「そいつはいい。あんたみたいなロートルは、三度も捕まっちゃ身が持たない」
 と憎まれ口を叩いてみせた。
 悔しそうに笑うオーシャンに「お前はどうする?」と聞かれたとき、とっさに「ホテルでも建てるさ」と答えた理由は、実は自分でもよくわからない。
 あるいは、ベラージオに、そしてそのオーナーの生き様にもっとも感銘を受けていたのは、ラスティであったのかもしれない。あの鉄面皮のように、常に変わらぬ自己を手に入れるため、ラスティはホテルオーナーになろうとしたのではあるまいか?
 いや、それとも……
 ホテルが大きくなれば、だれかが金庫破りに来てくれるかもしれないから? 引退したはずのロートルが、からかい半分に仲間と一緒にやってくるかもしれないから?
 まかり間違って、そのパーティーに、自分もいたらと考えると、楽しくてしょうがない。
 自分のつくった最高のセキュリティを、自分で破るのだ。そして、その時、傍らにはあの老け顔がいて、自分は最高の自分なのだ。こんなに素敵なことはない。
 もっとも、現実は甘くなかった。最高の自分からはほど遠く、ホテルの経営は赤字続きだ。だれもこんなホテルの金庫を破ろうとはしまい。
 それでも、オーシャンから電話がきた。それだけで、最高の自分になれる。
 おれにはオーシャンが必要だ。改めて、ラスティはそう思ったのだ。

 その、待ち望んでいたオーシャンとの電話が、はじまる。
「どうした?は?食事?テスと三人で?勘弁してくれよ。仕事もないのに馴れあうプロがどこにいる。ああそう、忙しいんだよ。じゃあな」

「こ」全身から力が抜けて一気にボルテージ90%
「と」窓の外から飛んで来た野球ボールが脳天直撃ボルテージ80%
「わ」ひざから崩れ落ちた絨毯が汗でぬとぬとしていてボルテージ70%
「っ」頭髪がキューティクルを失い坊主頭なのに枝毛だらけでボルテージ60%
「ち」男性ホルモンが異常をきたし髭が一気に伸びてボルテージ50%
「ま」いい男っぽさで抑えていたワキガが噴出しボルテージ40%
「っ」衣服がすべてパチモンブランドだと気づいてボルテージ30%
「た」服のほつれをひっぱったら、手品のように一気に分解されボルテージ20%
「|」やる気のない身体は実は貧相で貧弱なボーヤと笑われてボルテージ10%
「!」さらによく見たら下着がビガーパンツで、これが最悪のボルテージ0%だー!

 負け犬である。
 どこからどう見てもどこに出しても恥ずかしい、むしろ見ているほうが恥ずかしくなってしまうほどの見事な負け犬っぷりであった。
 ラスティ・ライアンが理想と現実の間で苦しむ日々は、当分終わりそうにはない。


 さて、もし見ているものがいれば、などと書いたが。
 一部始終を見ているものがいた。
 ラスベガスの帝王。悪魔も黙る冷血漢、テリー・ベネディクトその人である。
 怪盗ナイト・フォックスの情報をもとに、オーシャンの仲間であるラスティを隠しカメラで監視していたのだ。
 ラスティな情緒不安定っぷりを、表情一つ変えることなく、ゆっくりと葉巻をふかしながら見届けた帝王は、呆れたように大きく煙を吐くと、云った。
「最近、いまの私の気持ちをあらわすのに適した日本語を学んだのだが……なんだったかな……そう、たしか」
 葉巻の火を消し、蔑むように、続ける。
「チョウ・キモーイ」
 うしろに控える二人の部下は、なにも答えない。室内に沈黙が生まれた
 そこへ、新たな部下が報告にあらわれた。
「ベネディクト様、オーシャンがシャワーを浴びるようです」
「なんだと! まだ日も落ちてないのにか! いくら最近暑いとは云え、奴には規律というものがないのか。私も浴びるぞ。いそいで支度しろ。それで、シャワーの温度は!?」
「42度のようです」
「……呆れてものも云えん。40度を超す熱湯での洗顔やシャワーは皮膚の必要な脂分まで落とし、しわの原因になるのだぞ。アフターケアをちゃんとしなければならんというのに、やつはなにもせん。だからやつは老け顔になるのだ。シャワー後のやつに美顔クリームをつける方策を講じろ。シャワーを浴びている間にだ。わかったな……」
 テリーはせわしなく退室し、話しながら遠ざかっていく。
 やがてボスの声がまったく聞こえなくなった頃、室内に残された二人の部下は、顔を見合わせ、同時にこう云った。
「「チョウ・キモ~~~イ」」

 帝王と天才。
 二人の果てしなくそして不毛な戦いは、まだ始まったばかりである。



  おしまい


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禁猟区

「私がわからないのはだ、ミスター・ベネディクト」
 カジノオーナーは云った。
「なぜいまだに犯人を作らないのか、ということだ」
 テリー・ベネディクトは表情一つ変えずに答える。
「犯人なら捜している」
「そうじゃないミスター。犯人は捜すものじゃない。作るものだろう」
 ラスベガスの帝王テリー・ベネディクトが、ホテルベラージオの難攻不落の金庫を破られてから、すでに三年が経過していた。
 犯人はいまだ挙げられていない。
 同じラスベガスでカジノを営んでいるものとして、男は不思議だった。
 ことは金だけの問題じゃない。帝王の威信に関わっていることだ。
 偽者でもなんでもいい、とにかく犯人を作って、見せしめをしなくてはメンツが潰れたままだ。なのに、なぜテリー・ベネディクトとあろうものがなにも動きを見せないのか?
 帝王は、やはり表情ひとつ変えずに答えた。
「では問うが、君は私を三年前より舐めているかね?」
 男はあわてて首をふった。
 とんでもない話だ。いくら一度金庫破りにあったとはいえ、ベネディクトの悪辣さ、非情さはラスベガスでも群を抜いている。同じカジノオーナーとはいえ、自分などとは格が違う。舐めるだなどととんでもない。ラスベガスにおけるテリー・ベネディクトの存在感は、三年前の倍にも達しているだろう。
「そうだ。金庫が破られようと、だれにも私を舐めさせやしない。それに、偽者などたてれば、わかるものには偽者だとわかってしまう。それこそとんだ笑い話だ。私はね、ミスター」
 そこではじめて、帝王の口の端かすこしだけ吊りあがった。
「本物の犯人を捕まえるつもりだよ。なにがあろうとも、何年経とうとも、確実にだ。そして、死を願うほどの苦しみを与えてみせる」
 どこまでも冷徹でいながら、その瞳の底にほんのわずかな愉悦の色がある。
 まるでハンターだ。地獄の果てまでも獲物を追いつめる、史上最悪の狩人だ。
 すでに、どれほどの猟犬が獲物を追いかけていることか……あるいはいまこの瞬間にもかれらの喉笛に喰らいついているやもしれない。
 そしてかれらは知るのだ。テリー・ベネディクトという、世界でもっとも濃厚な毒物の恐ろしさを……
 男は、思わず身をふるわせる。
 金庫破りの報酬が一億六千万ドル? バカらしい。帝王を敵に回す代価としては安すぎる。何者かはしらないが、やつらは高い買い物をしすぎたようだ。
「失礼、ミスター・ベネディクト。あなたはやはりラスベガスの帝王だ」
 男の言葉に帝王は当然のように頷くと、腕時計にちらりと目を走らせてから、悠然と背を向けて去っていった。
 帝王は忙しい。かれのスケジュールは分刻みで定められているのだ。

 テリー・ベネディクトは急いでいた。
 実際、かれには綿密なスケジュールがあるのだ。
(一分と三十秒の遅れか……間に合えばよいが)
 足早に廊下をぬけ、ベネディクトはベラージオのオーナールームへと戻る。
 室内では、すでに部下たちが準備を整えていた。
「はじまったかね?」
「いえ、やつの帰宅が少々遅れているようで……いま家に着きました」
「点けろ」
 帝王の言葉に、目の前の50インチプラズマ液晶テレビのスイッチが入れられる。
 そこに映ったのは、にやついた中年男の顔だ。
「テス。いま帰ったよ」
「遅いわよ、ダニー。料理が冷めちゃうところだったわ」
「ごめんごめん。でも、テスの料理は冷めたって最高さ」
 ダニエル・オーシャン。
 いまテレビに映っている男の名である。
 老け顔すぎて逆に年齢不詳のこの男を、テリー・ベネディクトは監視している。三年前から、ずっと。
 むろん、金庫破りの容疑者として。
「今日のディナーはなんだい、テス?」
 そんなことには気づきもせず、オーシャンはやにさがったまま妻に尋ねる。
「あなたの好きなサーモンのムニエルよ」
「ポテトやほうれん草のソテーも忘れてない?」
「もちろんよ」
「それはいいな」
 と答えたのは、しかしモニターの中のオーシャンではなく、ベネディクトであった。
 オーシャン夫妻はカメラの外へと移動していき、カメラはダイニングキッチンのものへと切り替わる。テーブルのうえには、テスの言葉通りのメニューがおかれている。
 そしてオーナールームのベネディクトのデスクの上にも、まさにいま、同じ料理が並べられていた。
 同じサーモンのムニエル、というだけではない。
 その大きさ、外見の仕上がり、付け合せの野菜、さらには皿の種類まで。
 完璧に、モニターの中のものと同じである。
 付け加えて云えば、使っているサーモンの仕入先も小麦粉の産地も同じのはずだ。
 ベネディクトがそう手配したのだから。
 テスがメニューを決めると同時に、監視係がベネディクトつきのシェフに連絡。
 シェフはテスの用意したものに見た目の似た、しかし味は段違いに上の食材を三人分準備。そのうち一人分がキッチンへ、残りの二人分がバイク便へと渡される。
 バイク便はテスが帰宅するまでの間にすみやかにオーシャン邸へ到着。
 テスは帰宅をすると、まず食材を台所に置いて、洗面台で手を洗い、鏡を見て化粧を落とす。
 この時間が、ほぼ正確に一分半。
 その間に、バイク便から食材を託されたオーシャン邸要員がキッチンに侵入。物音も立てずに食材をすりかえ、出ていく。それとすれ違うようにキッチンへと戻ってきたテスは、なにも気づかずに調理にかかるという寸法だ。
 日毎の食材のみではない。調味料のたぐいも、すべてベラージオで使用している一流のものへと入れ替えられている。ラベルを元の安物にはりかえているのがポイントだ。
 こうして、オーシャン家の食材は、本人たちの知らぬところでベラージオと同じ一流品へと入れ替えられているのだ。
 これもすべて、ベネディクトが美味い食事をとるためだ。

「おそれながら、ベネディクト様、一つよろしいでしょうか」
 部下の一人が、思いつめた顔で云う。
 ベネディクトは、瞳をテレビからそらしもせず、冷たい声で応じる。
「わたしは食事中だ。それを理解しているか?」
「申し訳ありません。しかし、どうしても一度お尋ねしてみたかったのです」
「勝手に話せ。ふむ……この味は日本のソイソースベースだな」
 一瞥もせず、ベネディクトは食事をつづける。
「……なぜ、このような手間をかけてまで、オーシャン夫妻と同じ食事をおとりになるのですか?」
「理解だ」
 やはり一瞥だにせず、ベネディクトは答える。
「理解、と申されますと?」
「わたしは、やつこそが金庫破りの犯人だと確信している。だが証拠がない。それをつかむためには、理解が必要なのだ」
「確信なされているのなら、いますぐにでも捕えられては……?」
「確証もなしに、感情だけで動けと? 確かに、やつの命などいつでもとれる。事実などいくらでも捏造できる。だからこそ、私は確証を得るまで自らに猟を禁じている。すべては確証を得てからだ」
「それが、なぜ日々の食事を同じにすることに?」
「人の行動の根幹はなんだ? 本能だよ。本能が行動をつくる。そして食事は本能に基づき、日々をつかさどる行動だ。食事を同じくすることは、他者を理解することに通じる。む、やつはなにをしているのだ?」
 テレビの中では、オーシャンがソイソースの瓶に手を伸ばしていた。
「ちょっとダニー。まだソイソースをかけるの?」
「おれはこの丸大のソイソースが大好きなんだ、最高だよ」
「あー、もう! かけすぎよ。味が壊れちゃうじゃない!」
「これがいけてるのさ。試してみろよ」
「おい、ソイソースを」
 ベネディクトの指示を待つまでもなく、丸大のソイソースが帝王に手渡される。
 ベネディクトはまったく同量のソイソースをサーモンにかけ、それを口に運ぶ。
「たしかに、悪くないな。……が、オーシャンめ、歳を考えろ。塩分のとりすぎだ。おい、やつの家のソイソースを、明日までに減塩タイプにとりかえろ。ああ、それと、塩も自然塩に変えてこい」
「かしこまりました。それでは、入れ替えたやつの家の塩は廃棄、ということでよろしいですか?」
「わたしが諸君たちののなにがわからぬかというと、その無駄を好む姿勢がわからんのだ」
 ベネディクトは呆れたように云う。
「塩の一掴みたりといえど無駄にはするな。使い道があるはずだろう。そうだな……オーシャンにたまに電話をかけてくる、あの気持ち悪い若造の……」
「ラスティですか?」
「そうだ。やつの経営するホテルのシュガーポットの中身と入れ替えろ。いや、一つ二つだと不自然だな。よし、やつのホテルのシュガーポットの中身すべてを塩と入れ替えろ。すぐにだ」
「かしこまりました」
 部下の一人が、すぐに部屋を出て行く。ミッションをこなすため、いつでも動き出せる部下が何人もひかえているのだ。
 どういうわけか、ベネディクトはあのラスティとかいう若造が気に食わなかった。やたらとオーシャンと連絡をとっては、二人で楽しげに知性の感じない話ばかりをしているのが帝王の苛立ちを刺激する。
 さらには安っぽいホテルを経営しているというのも気に食わない。ベラージオのオーナへであるベネディクトにとって、一流以外のホテルは存在価値などないのだ。
 といっても、ホテルオーナーとして勤勉ではある帝王だ。一度だけ、身分を隠し、ラス帝のホテルを訪れたこともある。といっても、さすがに三流ホテルに泊まる気にはならず、プールだけを利用した。
 プールは呆れるほどに表面だけ派手な、ラスティ同様の安っぽいものだった。
 その証拠に、ベネディクトが水着で現れたときにはそれなりに入っていた客が、一泳ぎして帰るころにはもうだれもいなくなっていたほどだ。わかるものにはわかるのだ。
 おまけにあとで耳にしたところ、奇しくもその日にはプールに小型の熊が出没したらしい。カナダの山奥ではあるまいし、熊が出没するなど、いったいどれだけ安っぽいホテルなのだと、ベネディクトは絶句したものだった。

 このベネディクトの一連の行動によって、ラスティのホテルは見事な赤字をたたき出しつづけることになるのだが、それはまた別の、そして帝王にとっては興味のまったくないどうでもいい話である。

 さておき、さきほどの部下が、質問を続ける。
「行動を理解するため、というのはわかりました。しかし、なにもやつの健康まで気にすることは……」
「やつが死んでしまったら、わたしはだれから借金を取り立てればよいのだね?」
 モニターの中のオーシャン夫妻が食事を終えるのとまったく同じタイミングで、ベネディクトはフォークをおく。
 そしてダニーが冷蔵庫から赤ワインを取り出し、グラスふたつに注いでまたキッチンに戻ってくるのと同じタイミングで、ベネディクトの手元にも、同じ銘柄の赤ワインが運ばれてくる。
 ワインを口に含むと、ダニーは満足そうに微笑んだ。
「このワインは相変わらずうまいな。本当に角のスーパーで買ったものかい?」
「特売品よ。とんだ掘り出し物よね。まるで高級レストランのワインみたい」
 あたりまえだ。ラベルは一本10ドルもしない安物だが、中身はオーストラリア産のグランジだ。
 本来ならもっと良いワインとすり替えたかったのだが、さすがにラウンジ以上のものでは無理があるだろうと諦めたのだ。
 監視してみるとわかったのだが、オーシャンの暮らしは、存外に質素なものだった。
 というよりも、テスがしっかりしすぎているのだ。
 中身を自分の満足するものに入れ替えなくてはいけないベネディクトとしては困ったものだった。部下にとっては災難ですらあった。
 それほどまでに、オーシャン家は普通の家庭だった。
 とても、一億六千万ドルを手に入れた人間だとは思えない。
 だからこそ、ベネディクトは確証がつかめず、動くに動けないのだ。
 ここ三年間の監視で、ダニエル・オーシャンがしたそれらしい贅沢といえば、一つくらいしかない。
 と、おりよくその件について、報告が入った。
「ベネディクト様、例の腕時計が完成したそうです」
「もってこい」
 ことは二年半前にさかのぼる。
 ダニーがある日突然、ロレックスの腕時計を買ってきたのだ。
 これにはテスが血相を変えた。
「なんであなたって人はいつも相談もなしにそういうことをするの、ダニー」
 ベネディクトも血相を変えた。
「ロレックスだと? なんという悪趣味だ」
 ロレックスといえば、ほとんど成金趣味のあらわれだ。ベネディクトは一代でいまの地位をなした男だが、自身の趣味には絶大な自信を持っている。
 そのベネディクトにとって、あんな嬉しそうにロレックスを買ってくる男など、存在を信じることすらできない。
 帝王は即座に決断した。
「日本に飛び、。カシオのもっとも優れた職人を引き抜いて、ロレックスに潜入させろ」 時計はやはり質実剛健な日本製に限る。ベネディクトは日本びいきだった。
 引き抜かれたカシオの社員は、身分をいつわってロレックスに入社。
 二年がかりでその技術のすべてを学び(優秀な男なのだ)、材料と装置さえあれば、一人でロレックスとまったく同じ時計をつくれる人間となった。
 あとはその男をカシオに再入社させ、さらにアメリカに出向させ、ベネディクトの用意した「偽ロレックス製造専門工場」で、ロレックスと寸分たがわぬカシオ製の(カシオの社員がつくったのだから間違いなくカシオ製だ)腕時計をつくらせるだけだ。
 その完成品が届いたという報告なのだ。
 帝王は完成品を手に、驚嘆の声をあげる。
「素晴らしい。やはり日本の職人は優秀だ。この品の悪い成金趣味、どこからどう見てもやつの持っているロレックス製のものと寸分たがわん。今夜中に、これとやつの腕時計をすりかえてくるのだ」
「かしこまりました」
 部下が腕時計をふところに、新たなミッションに駆け出す。
 と、今度は別の部下が報告にあらわれたるまったく帝王は忙しい。
 その部下は、少々困惑気味の表情を浮かべていた。
「その……ベネディクト様? 大変申し上げにくいのですが……」
「かまわん、云え」
「あの……ここ三年間でのやつの監視費用が一億六千万ドルを越えました。あの……どういたしますか?」
 帝王は冷たい視線を送るばかりだ。
「どうもこうもない。そのまま監視を続けろ」
「しかし……これ以上はやつから金取り戻しても赤字ということに……」
「利子を取ればいいだけの話だ。貴様らはだまってわたしの指示に従えばいい」
「か、かしこまりました」
 つまらぬ話を打ち切るように、帝王は葉巻に火をつける。モニターの中でオーシャンが吸っている一見すると安物の紙巻タバコも、もちろんベネディクトと同じ葉巻をわざわざ刻んで紙巻にした特注品だ。
(しかし、解せんな)
 帝王はさすがに疑問ではあった。
(これほどまでにやつと同じ行動をとっているのに、いまだやつがどこに一億六千万ドルを隠しているのかわからんとはな。やつがもっていそうなのは、せいぜい一千数百万ドル……一億六千万ドルにはまったく足りん。やれやれ、当分はやつの監視をやめるわけにはいかんな)
 モニターの中で自分の元恋人といちゃついているダニエル・オーシャンのにやけ面をにらみつけながら、帝王は決意をあらたにするのであった。

 ちなみに、怪盗ナイトフォックスの密告により、ダニエル・オーシャンには十人もの共犯者がいたということにわかったのは、この件のしばらくあとのことである。
(共犯者……そうか、そういうもの可能性もあったか。まったく考えてもいなかった)
 ものすごく驚きながらも
「全員の居場所がわかるのか」
 そう返すベネディクトには、間違いなく王者の風格があった。
 ……はずである。

 
    


 謎の窃盗団による金庫破りより、数ヶ月の月日が流れていた。
 テリー・ベネディクトの日常には、なにも変化はない。
 被害総額、一億六千万ドル超。
 常人ならば、百回首を吊っても追いつかない金額だ。常人ならばの話だ。
 テリー・ベネディクトはちがう。
 確かに、痛手ではあった。
 だがラスベガス最大のカジノを三つも有する賭博王の身代を潰すほどではない。
 潰されたのはメンツだ。
 犯人グループは、いまだに見つからない。
 あれほど鮮やかに厳重な警備をかいくぐった奴らだ。裏社会で無名ということは有り得ない。
 だが、有力な候補にはすべてアリバイがあった。
 最有力候補にいたっては、その時刻にはほかならぬベネディクト自身が捕えていたのだ。
 犯人は、まるで見つからない。
 だが、テリー・ベネディクトの日常は変わらない。
 メンツを潰した奴は許さない。必ずや犯人を見つけ、共犯者も、家族も、みな死んだ方がマシなほどの痛い目に合わせてやる。それが、テリー・ベネディクトの日常なのだ。
 だから、かれの日常はなにも変わらない。
 今日もまた、精密機械の異名のままに、同じ時刻に起き、同じ車に乗り、同じタイミングでカジノへ顔を出す。同じように部下を監視し、同じように客の様子を見、同じように上客へ挨拶に回る。
 数ヶ月と変わった事があるとしたら、ただひとつ。
「センセイ、オネガイシマス」
 勉強中の日本語が上手くなったことくらいだ。
 客の中には、感心し、訊ねるものもいる。
「いまの言葉はなんです?」
 かれは微笑してこたえる。 
「これはジャパニーズで敬意を表す言葉です。高い技術を持つものに対して、頭を下げて頼むときに。この言葉を使ったそうです。貴方に対する、私の心からの言葉です」 
 かれに敵意をもつことは、難しいだろう。
 かれは完璧を好む。すべてを如才なくこなす。そのために努力は惜しまない。
 だからこそ、三つのカジノを、休むことなく毎日まわる。自分の目で、耳で、すべてを確かめる。精密機械の名のままに、完璧な仕事をこなす。
 仕事を終えると、ディナーをとる。
 以前は毎日のように一流レストランに予約を入れていたが、いまは必要ない。一緒に食事をとる女は、彼のもとを去った。数ヶ月前との、わずかな違いの一つだ。
 もっとも、あまり気にするかれではない。その気になれば、女などいくらでも手にすることが出来る地位があり、金がある。女など、いまさら惜しまない。
 ただ、かれは少々、審美眼にうるさい。潔癖なほどの完璧主義者なのだ。なかなか、かれの眼鏡にかなう女はいない。
 その点は、多少惜しい気がしないでもないが……
 不思議と、彼女が去っていったことには、怒りも落胆もない。
 彼女のことを考えるとき、思考は自然と彼女自身ではなく、べつの存在へと流れていくからだ。
(ダニー・オーシャン……)
 彼女の元夫だった男。服役中のケチな泥棒。
 そして金庫破りの、最有力容疑者。
 ここ数ヶ月、気が付くと、ベネディクトはやつのことばかりを考えている。
 ラスベガスでは、その誕生から現在まで一度足りとも強盗も泥棒も許したことはなかった。
 その歴史に泥を塗ったのが、よりにもよってカジノ王テリー・ベネディクトであるなどと、どうして認められようか。
 ダニー・オーシャン。
 金庫破りの名人だと、ここ数ヶ月の情報収集でわかった。
 だが、そんな話を聞く前から、事件が起こった直後から、かれは確信していた。
 犯人は、この男にちがうあるまいと。
 あるいはそれは、事件の起きる前から、あのレストランでダニー・オーシャンとはじめて出会った瞬間から、確信していたことであったのかもしれない。
 この男は、自分のとって、見逃してはならないなにかなのだと。
 いい歳をして子供のような笑みを浮かべる男に、テリー・ベネディクトはそう直感していたのではあるまいか?
(くだらんな)
 日毎おとずれるその想いを、言下に切り捨て、日常へもどる。
 かれの日常に狂いはない。精密機械は壊れないのだ。
 帰宅すると、まず語学の勉強をする。幅広い語学は、幅広い人脈を生む。
(日本語はほぼマスターした。次はどの国の人間を狙うか……)
 予定の時間どおりに勉学を切り上げ、かれは鏡の前に立つ。
 鏡の中で、カジノ王が微笑を浮かべている。
 本音を云えば、笑うのなどまっぴらだ。
 だが、自身の深い知性が、厳しいまなざしが、多分に威圧となり不要な敵をつくることをかれは知っている。
 だからこうして、笑顔の練習をする。心を殺して、微笑を浮かべる。鏡の中に、自身の理想の笑顔を思い描き、それを実現させる。いついかなる時も、完璧な笑みを浮かべるために。
 テリー・ベネディクトと対等の存在など、このラスベガスに、いや合衆国に果たして何人いることか。
 それを思うと、笑うことなどばかばかしくなる。
 それでも笑う。十数年、続けてきたように、己を律して。
 もはやそこには理由などない。精密機械であるかれが、かくあるべきと定めたのだ。それで十分だろう。
 だが、何故だろうか、近頃は、鏡に向かったとき、そこに思い描くのが、自身のいつもの微笑ではなくなっていた。
(ダニー・オーシャン……)
 いつかのレストランで見た、あの男の笑顔になっていた。
 それは、かれの笑顔とはまるでちがっていた。
 油断がありすぎ、相手に舐められすぎる笑いだ。
 敵意をもたれてはいけない。だが舐められてもいけない。
 その鉄則からすれば、ありえないような笑顔だ。
 なのになぜ、近頃はあの笑顔が思い出されてならないのか?
(長らく、見ていなかったものだからかもしれんな)
 暗黒界に君臨するかれに、そのように無邪気に笑いかけるものなど、絶えて久しかった。
 だからこそ、かもしれない。かれがあの男を敵だと直感したのは。
 くだらぬ笑顔をふりはらい、テリー・ベネディクトは眠りにつく。翌日も、精密機械の日常を送るために。
 
 カジノには、今日も異常はない。
 その報告を受け取るかれもまた、いつも通りに完璧なスケジュールを完璧にこなすだけだ。
 だが、その日は一つ、部下の報告の中に、ほんのささいな変化が見られた。
「ダニー・オーシャンが出所しました」
「ほう」
 冷めた目で、部下の報告を受ける。
「尻尾はつかんだのか?」
「いえ、現在、二名に追跡をさせていますが、いまのところ、怪しいところを特にないそうです。こちらが、先ほど送られてきた、出所後のやつらの写真です」
 写真には、一代の車が映っていた。
 運転席には、サングラスをつけた若い白人の男。
 後部座席には、かつてかれの恋人であった女。
 そして、その隣には、あの男がいた。あの日のように、無邪気な笑みを浮かべて。
 やつだけではない。隣の女も、運転席の男も、まるでやつにつられたかのように、無邪気な笑みを浮かべている。女がそのように笑う姿を、かれははじめて見た。
 その笑顔で、かれは確信をあらたにする。
「引き続き、やつの監視を続けろ」
 それだけを告げて、足早にかれは去った。
 テリー・ベネディクトの日常は忙しく、精密機械の日常に狂いはない。
 敵は消す。徹底的に消す。
(ダニー・オーシャン。逃しはせんぞ)
 それが、テリー・ベネディクトの日常なのだから。

 テリー・ベネディクトが去ったのを確認してから、二人の部下は息を吐いた。
「まるで獲物を前にした狩人だ。恐ろしい」
「ああ、恐ろしい。ボスが、本当に笑うことが、あるなんてな……」


 
  おわり



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